【南船北馬】:絶えず方々に旅行すること。昔、中国では、南部は川が多く船で、北部は陸地を馬で旅行したことからいう。そんなふうにしょっちゅう旅に出られたらどんなに楽しいことだろう…
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午後は、再び寺見物からスタートである。
長勝寺は。弘前でもっとも大きい寺で、門前の参道、禅林街の両脇には三十三の寺が軒を連ねている。まさに銀座。午前中に行った新寺町は片側だけだったので(本当はそうではないのだけれど、受けた感覚としてはそうだった)、単純計算で倍。倍だからどうだという話ではあるが、ロケーション的に右も左も寺てらテラというのは、それなりにインパクトがあるのだ。 ![]() ![]() 黒門をくぐると長勝寺までは一直線。軽い坂道となっている一本道の参道を、オレは自転車で疾走する。寺に着くと、他の寺とは違い、あまり人気が少ない。この寺は津軽藩の菩提寺であり、市井の人々のお彼岸のご先祖様へのお参りと無縁だからなのだろうか。推測の域を出ないわけだが、ともあれ、ひと気が少ない分、逆に第一寺ならではの雰囲気を醸し出しているように思う。 ![]() 本堂は大改修中で、中に入れなかったのは残念だが、脇の小堂は開きっ放しで、気軽にお邪魔し、中に林立する羅漢達をそれこそためつすがめつガン観する。さらに寺内を奥に進むと津軽藩主のお歴々の廟があるのだが、そこは至る道には鉄網があり閉じられていた。さすがにそこまで自由に観てまわることはダメなのだなと思い、わきを見ると「拝観料300円」と書いてある。なるほど、そういうことかと社務所へ行き、声をかけ拝観をお願いする。 と、一瞬、?的な表情をされ、そしていいですよという返事。しばらく待つとお坊さんが出てきて、案内してくれることになった。 なぜそういうリアクションになったのかというと、 坊さん曰く、拝観料といってはいるが、寺内はどこでも自由に観ることができる状態になっており、本堂もたまたま改修中なので立ち入りできないようにしているが、修理していなければ本当に自由に入ることができる。先にオレ一人で観ていた五百羅漢達のお堂も、実は普段ならば羅漢だけではなく中央に据えられた厨子もご開帳状態なのだそうだ。厨子の中には阿弥陀三尊像が控えているのだけれど、現在ちょうど秋田の博物館に出張中で空っぽだから閉めているだけということだ。オレとしては三尊に会えなかったのは少々寂しかったことは確かだが、厨子自体美しくその扉を観ることができたことを思えば、これはこれでよかったのかなとも思う。 そんなかなり古くかつ美しい(であろう)仏像でもあるにもかかわらず、本当に自由で気楽に置いてある。「平気なんですか?」とたずねると、そういう質問はやはり多いらしい。しかし、地元の感覚としては、「いつも普通にそこにあるものなので、別に隠すようなものでもないなぁ、という感じなんですけれどね」ということだそうだ。 そんな感じのフランクな寺だから、もちろん奥の廟についても、別にクローズドにするつもりなどなく、普段ならば自由に入ることができる。本堂の改修工事中で資材などが散乱していて危険だから、案内役と一緒に入るようにしているわけだそうだ。たぶん、一人で中に入ることも、いいとは云わなかったけれども自己責任の範囲内で黙認されるかもしれない。 「つまり拝観料というよりは、案内料なんですね」と、坊さんは云った。確かに、かなり面白可笑しくかつ率直素朴な、長勝寺や津軽の話を聞くことができたのだった。それはとても面白かった。 例えば、この寺には津軽藩主や奥方の墓がある理由や、それにまつわる伝説。そして、5代目からの墓が廟ではなく、石塔になってしまっている理由などは歴史裏話的で面白かった。特に一代目為信、二代目信枚は名君だったが三代目信義がダメで、四代目信政がまた名君だったなどの、人物評を交えての語りは、歴史に興味がない俺でもふんふんと聞いてしまう。そもそも三代目までは元々この寺に墓があったが、四代目は何を考えたか宗旨変えして墓も報恩寺に作られたのだが、後世になってやはり一ヶ所に(つまり長勝寺に)集められたのだそうだ。 また、この寺のそもそもの建立由来は、山を切り崩して更地にしてできたものであり、それは本当は弘前城をつくるためだったのだけれども、徳川幕府からダメ出しをもらって建てることができず今の場所に建てられたはいいが、城の背後ががら空きとなってしまう。その守りのために、じゃあってんで、今の場所に移築された。さらに周辺に点在していた寺も無理やり(!)集めて寺群としてしまった。そのために今のような密集地となった、というもの実に面白い話であった。 (ガイドによると、二代目藩主信枚が、領内を宗教的にも統一しようと、津軽一円から主要な曹洞宗の寺院を集めてできた、とされている。オレは宗教的な理由というよりは城防御の意味合いのほうが強いというのが正しいのではないか、と思うな) ![]() 仏像である。そうだったのだ。寺を巡っているのは歴史探訪ではなく、仏像にあうためだった。本堂にいるべきご本尊だが、改修中の現在は、別室、社務所のほうに仮住まいしているのだった。もちろん案内してもらうことができた。この寺の本尊も文殊だった。1メートル余のわりと大きめの文殊菩薩は端整な美しさであった。本来は薄暗い本堂にいるのだけれど、今は明るい別宅である。もうかぶりつきでガン観することができた。もっとも坊さんと一緒なので、あちこち角度を変えて舐めまわすまではできず正座して正面からの対話的対面。残念といえば残念。しかしたまにはこういう出会いもいい。 ところで、オレが坊さんに案内されて歴代城主の墓に向かうとき、ちゃっかり勝手に同行してきた親父がいた。なんだよ、タダ乗りか? と思いつつ、坊さんも特になにもいわかなったので(上述のようにゆるい感じだったので別に咎めるもなにもないだけのことだったわけだが)、オレも特になにもいわなかったのだが、オレが帰る段になって、三門で旧に話しかけてきたのだった。「寺が好きなのか」「どこから来たのか」「どのくらいまわったのか」等など。単なる話好きの親父だったわけだが、普通そこまで馴れ馴れしく話しかけられることがないので少々面食らってしまった。まあ、それだけのことである。
by gdcl-nshb
| 2006-09-21 10:00
| ├ 弘前編
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