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南船北馬inblog

【旧:南船北馬(HTML版)はこちら】
【南船北馬】:絶えず方々に旅行すること。昔、中国では、南部は川が多く船で、北部は陸地を馬で旅行したことからいう。そんなふうにしょっちゅう旅に出られたらどんなに楽しいことだろう…
by gdcl-nshb
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伝説700年の寺
 光前寺は、大きな杉の木々が直立する古刹であった。山門までの石畳の両脇には立派な杉の幹が並んでいる。天頂から降り注ぐ夏の木漏れ日と蝉の声が、あまりにもわかりやすい夏寺の風景を構築しており、まずはそれだけでくらっときてしまう。
伝説700年の寺_d0081682_1742766.jpg さて、ここ光前寺にはいくつかの名所名物があるのだが、そのひとつめが、ひかりごけなのだった。見物客は、皆一様に腰をかがめ、微妙に見る位置を変えながら「あれか? これか?」とひかりごけを探している。オレも負けじと参道の石垣の隙間を覗き込む。
 薄暗い奥のほうに黄緑色の苔が張りついている。これがひかりごけなのであった。ひかりごけ、といってもここのものは自家発光するタイプではなく、表層の結晶構造が外から入ってきた光を反射するタイプ。覗き込む角度と反射の角度が合うと、キラキラとエメラルド色に輝くのだ。多分、ぼんやりと燐光色に光る自家発光のようなものを想像していたせいか、正直、ここまでまぶしく明るく光るとは思わなかった。

伝説700年の寺_d0081682_1744466.jpg 本堂は意外と大きくはない。そこでまず目につくのは大黒天の木像である。1メートル程の大きさの大黒様ではあるが、しかし大黒様本来の姿に近いというか京都の清水寺の大黒様のようというか、ようするに幸せを振りまきますよというような感じではなく、どことなくダークな印象で大黒様の暗黒面を表現しているんじゃないのかとつい思ってしまうのであった。それは像が黒いからきているのかもしれないが、なんとなくあの笑顔の裏になにかがありそうだ、とつい勘ぐってしまうのである。そんなことを思うオレが病んでいるんだろうけれど。
 さてそんな大黒様の隣には、待ってましたのこの寺のスーパーヒーロー、早太郎が凛々しく座っている。実は早太郎という存在は、駒ヶ根市の情報を調べるまでは知らなかったのだが、江戸時代に村の娘達を襲い続けた怪物狒々を退治し、しかしに自らも力尽きてしまったという、まさにオレ泣かせなカッコよさっぷりの霊犬なのであった。あらためて像の脇にある故事来歴を読み、そのヒーローっぷりに涙するのであった。本堂の早太郎は、かなりリアルに彫りこまれた木造であったが、ここ光前寺にはいたるところに早太郎像があり、例えば五重塔の近くには石造りの像があり、またいかにも素人造りでボロボロではあるが人々に慕われていたのだなあと思わせる木像などもあって、それらをみてまわるのは楽しかった。まあ、オレは実は犬派じゃなくて猫派なのだけれど、犬の持つヒーロー性についてはわかるなぁ。

伝説700年の寺_d0081682_174593.jpg さて、￿￿￿三重塔を見ながら境内を一周する。ところで、今年(06年)は早太郎伝説700年という年(といわれてもなぁ)に当たっており、特別観覧が行なわれているのだ。もちろんその機会を逃すいわれもなく別棟におじゃまする。どうやら普段は檀家さんたちの寄り合い場所になっているのであろう小さな棟内には、特別観覧のメインとなる早太郎に関する経典の数々が展示されていた。しかし、見ておいていうのもどうかと思うが、経典を見たからといって、そういうものを見たという確認作業でしかない。来た記念になりました、ということはあってもそのもの自体にみるべき価値をオレはさほどは感じなかった。これは今回に限ったことではなく、例えば「ここがあの事件の舞台となった古戦場」みたいなことがあっても、今そこがただの街並みになっていたとしたら、それをみても感慨なんかは、ないのである。今観たものがすべてなのだ。観たものそれ自体がオレにどう提供してくれるのかが重要で、過去はその次の付録的要素なのである。つまり歴史嫌いだから、ってことなのだ。

 というわけで、特別観覧でオレがめっぽう反応したのは、もちろん仏っさん達であった。当然のような早太郎の像や、不動明王像。寝釈迦や弁財天、カッコいい脇時たち。どれもいいバランスで薄暗いお堂の中でオレを歓迎してくれている。一番素敵だったのは、壁を囲む飛天たち。飛天好きだからこれにはかなりクラッときた。
 もっとも、これらの像は古いものではなくけっこう最近に作られたものであるらしい。いかにも新しい像の姿かたちをしている。もちろんそれはそれでカッコいいし楽しいのだけれど、ただオレが一番グッとくる仏像は、やはり昔モノのほうなんだなぁ、と思うのだった。別に懐古趣味とか歴史的逸話がとかそういうことではない。現在の仏像は、造り手の腕が高すぎて、あるいは彫刻として描くという技術が発達しすぎて、あまりにも顔かたちが整いすぎていているのだ。美しいけれど普通。どこかあれっと思わせる破格感がないところが、いまひとつピンとこない理由なのだ。ほら、ミスユニバースみたいな絶世の美女よりも、貧乳とか八重歯とか背が低いとか高いとか、そういうどこかひとつ欠点(ともいえない程度の個性)があるほうが気になっちゃうみたいな感じ。違う? まあ、そういうことだ。

 もうひとつ面白かったのは、インド系仏が2体あったこと。それはもう思いきりガンダーラな感じの仏像で、像自体は観られてよかったのだけれど、さすがに何故にどんな由来で光前寺にいるのかは知りたかった。

 特別観覧の最後は煎茶のおもてなしであった。薬缶をひとつ渡されて好きなだけ休んでくださいという。あまり人も多くなく、いや正確にはオレを除けばひと家族だけが、広間でのんびりと時間を過ごしている。外の日光は地面をジリジリと焼き続けていたが、ここはいい風が抜けていくのであった。実に心地よい。
 そんな光前寺での見仏であった。

by gdcl-nshb | 2006-08-12 06:00 |  ├ 人が造りしモノ
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